演ずるものを鑑賞する対象として(歌や楽器は除く)、一番容易にできるものは テレビドラマである。ここでとどまっている人が実際には多いのではないかと思う。なにがしかの感動は得られるが所詮、小さな箱の中。コマーシャルで途切れたり、自分の都合で中座したりとその世界には十分入れない。
次に映画。そこに行くという時間と場所の制限がある。しかし、巨額の投資が裏にあり、作品にかける制作者の強い思いが臨場感に満ち、心に響く。登場人物にふさわしいキャストの演技に引き込まれる。でも、所詮幕の中。
その次に多いのは、好みにもよるが、ミュージカル→オペラ。または、歌舞伎→狂言・能であるが、その→の伸びは双方とも少ない。(演劇も顧客は限られる。小唄・浄瑠璃などは、地方の芸能として息づいているものもあるとか。)
生に勝るものはない。役者の息づかいが伝わってくる。それがたまらない。であるのに、オペラや能は、なぜ敷居が高いといわれるのか。
それは、専門性が必要であるからだ。また、日本の中では、非日常の世界のジャンルであるからだと思う。オペラにしても能の謡いにしても、なぜあのような声を出さなければいけないのか・・・
言葉も分からない。約束事も多い。しかし、それを学んだり親しんだりした者には、ダイヤモンドより素晴らしいと思える。そこがクリアーできれば、映画に行く感じでオペラ劇場や能楽堂に足を運べるであろう。 前置きが長くなってしまった。 そういう、慣れ親しむ機会の少ない能楽に触れるという絶好のチャンスとして、今回のレクチャーは素晴らしい内容であった。どこから入ったとしても、90分そこそこで「よく分かりました。」というところに行き着くものではない。ガイダンスとして、もっと知りたいと思わせる仕掛けがあった。それは、吉田先生の能に対する深い愛と絶妙な技に支えられたものだと思う。
言い出せばきりがないところを、能の言葉の定義・歴史・舞台・面・装束・典拠と文字・所作・音楽・五つのジャンルと代表作・謡と能楽を概観させてくださった。この流れは能の軸になるもので、算数の系統的な指導のように、順序を間違えると正しい理解に繋がらない。その軸が通ったところで「道成寺」の見所を、切り込むようにお話しくださったことで参会者の目と耳はDVDに惹き付けられた。シテの止まっているかのような姿や鼓と足の動きのコラボ、鐘をめぐる所作…
H25年1月20日(日) 寒風吹きすさぶ中、昭和区にある個人所有の舞台「楽諷庵」に約50名の仲間が集まり能楽についてのレクチャー『能への誘い』を開催しました。今回のナビゲーターは観世流 名誉師範 吉田幸子さん。
能楽の言葉の定義に始まり歴史・能舞台・面・装束・典拠と文学・能の音楽等、沢山の映像を使いながら約2時間のひと時を過ごしました。日本の伝統は遠くて近い?「なるほど!そうだったのか!」と頷けましたでしょうか?